美のコンセプト
かわいい、とか、セクシーだとか、そういうコンセプトに「真の」とか、「本当の」意味はあるんだろうか。
私はないと思う。
この手のコンセプトは不変ではない。
それでいい。
でもそれではよくないのが、世間とメディアだ。
どうしても何事にもラベルをつけたくなる。
カテゴリー分けをして、客を集める。客に名前を与える。
客はその名前を誇り高く掲げる。
例えば、これは美とは全く関係ないけど、カテゴリー分けの例として、音楽業界を見てみよう。
プログレッシブロックとパンクロック。
この境界線は微妙だ。
でもカテゴリー分けすることによって、CDショップに違うセクションができ、客はそれに従い曲を探すことができる。
そしてその客たちは「自分はパンクロックのファンだ」と言う。
プログレッシブとは違う、パンクが真のロックだ、とか言う。
カテゴリー分けにより、自分が特別になり、優越感や、他のファンとの団結感を得る。
賢い商法だ。
とにかく、カテゴリーは分けるだけ分けて、それらに名前を与えるのは、物事に一種のアイデンティティーを与えることになる。
美の定義もそうだ。
雑誌やテレビで、出される人たちの共通点は、だいたい細くて、目が大きくて、髪がつやつやで、白いこと。
それをメディアがかわいいかわいいと騒ぐもんだから、あ、それが「かわいい」んだ、と私たちは思う。
だから今の「かわいい」の定義の一部は細くて白くて目が大きくて髪がサラツヤなこと。
でもこれが「真」のかわいいなのか、と聞かれたら私はそうは言えないと思う。
じゃあかわいいってなによ、と聞かれても答えられない。
この手の定義は、かわいいの一例であって、定義ではない。
日本では「美」は「かわいい」とほぼイコールだと私は思う。
かわいくなることは、いいことで、魅力的になること、だと日本では思われている。
でも海外での美や魅力は日本のかわいいとは全く以って違うものだ。
セクシーになることが美だ。
Victoria's Secret(ランジェリーショップ)のファッションショーを見たことがあるだろうか。
これはモデルたちがほぼ下着(と言っても超派手で下着の域を超えるようなもの)でショーをする。
北アメリカではこれはもう超ビッグイベントで、このショーに出られるモデルたちは、トップモデルたちだ。
だから北アメリカの多くの女子たちが目指す美は「こういう」魅力なのだ。
セクシーで、大人っぽくて、ミステリアス。
出すところは出すのである。
日本ではあんまりセクシーになることは「勧め」られていない。
少しでも谷間の出る服を着ると、うわあすごいね、と言われたりする。
逆に、カナダの友達に、日本ではかわいくなることが正義だ、と言ったら、変なの、と言われた。
でもどちらも、土地は違えど、大多数から支持されている美の形だ。
だからやっぱり美を定義するのは難しい。
だけどメディアのせいで、私たちは、美の一例に踊らされている。
自分の好きな美を目指すのが一番だけど、メディアのせいで、かわいいはこうでなきゃ、と思ってしまいがちである。
だけど自分の似合うものを着ていれば、その地で同意されている美とは少し違くても、周りは「きれいね」とかけっこう言ってくれるものだ。
だからまだ、いろいろな形の美を認識して認められる人は多くいるのだと、少し希望が持てる。
カナダでは、もちろんセクシーなものを着ていれば褒められる。
メイクも濃いめにセクシーな魅惑的(?)な感じでいけばなおさらだ。
だけど、私はそういうのが周りの子より似合わないのはわかっている。
背は低いし、顔も童顔だ。どうしても15歳が頑張って背伸びした感が否めない。
似合わないのに褒められるのは、その「パッケージ」が美として今のところ確立しているから、そのメイクとドレスがセクシーとして捉えられているだけであって、私がセクシーなわけではない。
それに気づいてからは、自分に似合うものだけを買うようにした。
その服自体は大したことないけど、私が着ればよく見える。
逆かな、その服が私をよく見せてくれるのかな。
まあどちらにせよ、二つ合わされば魅力的になるのだ。
その服を着ていると私もハッピーだし、周りも素敵ね、とよく褒めてくれる。
そういうものに出会えるチャンスは多くないけど、出会えたときの喜びは計り知れない。
服がトレンディーだから買う、ということほど、世間に踊らされていることを痛感することはない。
そしてその服はすぐにトレンディーではなくなる。
その服はあなたに似合っていただろうか?
似合っていたら、トレンド過ぎても着続ける。
けど、そういう服持っているか、一度自問してみてほしい。
facebookのグループなどで、「一度しか着てない服売ります」なんてポストをよく見るけど、なんで買ったんだろう。
よく「好きなものを着るべきだ」という人がいるけど、どういう意味で言っているのか聞きたい。
そういう人たちでも、流行りの服を安く手に入れて、シーズンごとに入れ替えている気がする。
好きなんだったらもっと大切にするべきだし、生半可にこの服が好き、だなんて言うべきではない。
服は人に着られるのが目的だから、服だけが好きでは意味がない。その服を着た自分が好きかどうかが重要だ。
私たちは「共通」の「真」の美にたどり着こうと必死で、いろいろなスタイルを試して、これもだめ、あれもだめ、の繰り返し。
真の美なんて、人それぞれなのに。